境内のご案内
久能山東照宮へのご参拝は久能山の山下から1,159段の表参道を登る方法と、
日本平からロープウェイで久能山に渡る方法があります。
交通アクセスについては、こちらをご覧ください。
石鳥居
山下の石鳥居は、明神造で国道150号線より北約150mの位置に建っています。明き、5.5メートル、高さ6.5メートル、柱の直径は60センチあります。大正4年4月17日に斎行された東照宮三百年祭を記念して、同奉賛会によって奉納されました。東照宮への参拝はここから始まります。
表参道
山下石鳥居より本殿前まで17曲り1,159段あります。昔の人は「いちいちごくろうさん」と洒落を言いながら登ったそうです。昭和32年に日本平ロープウェイが開通するまでは、この表参道が唯一の参拝路でした。
久能梅林
久能梅林は、山下石鳥居を潜り参道を約50メートル登った位置の左側にあります。面積約3,000平方メートル、早生、中生、晩生の梅がおよそ10種類、約130本あり例年春になると多くの参拝者を楽しませてくれます。 また、梅林中腹には四阿(あずまや)があり、ここからは駿河湾、伊豆半島などの眺望を楽しむことができます。
一ノ門
山下より17曲りの石段を登りつめたところにある門で、ここからは駿河湾、 伊豆半島、御前崎が一望できます。 城門風で屋根は左右切妻造りの銅板葺きです。元は櫓門でしたが、明治17年9月15日、九州・四国・畿内・東海地方の広範囲を襲った暴風によって倒壊しました。その後平屋に改めて現在に至っています。
門衛所(もんえいしょ)
一の門内の正面に建っている建物で、建物前面に敷台があります。ここは、元の上番所で総門番榊原氏配下の与力が人ずつ昼夜交代で勤務していた所です。ここの西側には下番所が置かれて同心8人ずつが与力同様、昼夜交代勤務していましたが、下番所があった建物は残っていません。ここで警護に当たるとともに参拝者の出入り監視していました。この種の建物は全国でも少なく貴重なものです。明治24年4月に改築されて今日に至っています。
勘介井戸
この井戸は深さ33メートル(108尺)、石垣積で、戦国時代に武田信玄公の軍師山本勘介が掘ったと伝えられ、昔の久能山城を語る貴重な文化財です。
楼門(ろうもん)(重要文化財)
社務所受付を通ると朱塗りの大きな門が目に入ります。 楼門という2階建ての門です。 軒下中央に第108代後水尾(ごみずのお)天皇の宸筆「東照大権現」の扁額が掲げてある為、「勅額御門(ちょくがくごもん)」とも言われています。 中央の蟇股(かえるまた)に獏(ばく)の彫刻があり、(鉄や銅を食料とすることから平和の象徴とされる)表側左右の格子戸内に随身(ずいしん)、裏側左右の金剛柵内に狛犬(角のない方が獅子、角の有る方が狛犬)が据えられています。
神厩(しんきゅう)(重要文化財)
当時は家康公の愛馬を飼育していましたが、現在は名工左甚五郎作と伝えられる木像の神馬が納められています。(眼球はギヤマンを使用しています。) なお、社伝によると家康公の愛馬は神廟裏手石垣の南隅に埋葬されたと伝わっています。
久能稲荷神社 例祭4月9日
末社稲荷神社と末社厳島神社と合殿になって西向きに建っています。 稲荷神社の御祭神は保食神です。東照宮創建以前よりの鎮座と伝えられています。古来山上の愛宕神社の前に鎮座していましたが、明治17年9月15日の暴風により社殿が倒壊したので、山上から楼門内東側の現在所に遷座されたと伝わっています。
厳島神社 例祭6月17日
厳島神社の御祭神は市杵島姫命です。もとは弁財天社でしたが、神仏分離により厳島神社となりました。
鼓楼(ころう)(重要文化財)
創建当時は鐘楼(しょうろう)(鐘つき堂)でしたが、明治時代の神仏分離の際、鐘を太鼓 に替えて今の名称に改められました。 太鼓は明治6年旧幕臣小島勝直氏が江戸城にあったものを奉納したと伝えられています。
五重塔跡
以前この場所には三代将軍家光公の命により寛永12年(1635)に着工、寛永13年正月に完成した、高さ約30メートルの五重塔がありました。 しかしながら明治時代の神仏分離の際に取り払われ、現在は在りし日を偲ぶ礎と礎石を元のまま残しています。 塔址の中央には、五重塔内の心柱の下部受口となっていた礎石があり、これを掘起して前方に移動、駿府城内にあった蘇鉄が移植されました。現在も樹勢盛んです。
神饌所(しんせんじょ)(重要文化財)
神饌とは神様へのお供え物のことで、それを準備する所です。神楽殿の西側に位置し渡廊によって社殿と連結しています。毎朝、神職が奉仕する日供祭を始め、すべて神様にお供えする神饌は、ここで調理されて、本殿左側の仮神饌所に運ばれます。
実割梅(みわりうめ)
唐門下にある白梅は「実割梅」といい、その前に石碑が建てられています。 実割梅は徳川家康公が駿府城で自ら育てていたものでした。江戸時代、駿府城ではこの実割梅から梅干を漬け、東照宮に納める仕来りだったそうです。しかし、奉納は明治維新後に行われなくなってしまい、当時の第一祠官(現在の宮司職)であった出島竹齋は梅樹そのものの存続を憂慮し、徳川慶喜公と協議の上、明治9年2月25日に駿府城から東照宮へ移植いたしました。勝海舟は出島竹齋翁の忠節に感銘を受け、山岡鉄舟と共同で石碑を立てたと伝わっています。 現在でも、御祭神がお喜びになるよう、また出島竹齋翁の忠節にならい梅樹の管理および梅干奉製を行っております。
神楽殿(重要文化財)
古記録によると「古来神楽は奏せざる例」であるといい、以前は武家奉納の絵馬が掲げられていたと伝わっています。
神庫(しんこ)(重要文化財)
奈良の正倉院と同じ校倉造りの建物で、博物館ができるまでは神社に伝わる宝物類が納められていました。
竈神社(かまどじんじゃ) 例祭12月17日
神楽殿の北側の一段高い所にあり、社殿は西向き、向拝があり見世棚造りの小さな神社です。 御祭神は防火の神で火産霊命(ほむすびのみこと)奥津彦命(おきつひこのみこと)奥津姫命(おきつひめのみこと)の三柱です。 正保3年(1646)に創建されました。
日枝神社(ひえじんじゃ)(重要文化財)
例祭6月15日
御祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)です。 創建当時は本地堂(ほんじどう)として薬師如来像(東照大権現の本地仏(ほんじぶつ))が安置されていましたが、明治時代の神仏分離の際に仏像を移し、楼門内東側に鎮座していた山王社(さんのうしゃ)の御神体を納めて社名を日枝神社と改め現在にいたります。
唐門(重要文化財)
拝殿正面にある門で、屋根は銅瓦本葺黒漆塗の四方唐破風造の門です。羽目板に唐獅子牡丹、黒松に鳥の透彫があります。
御社殿(国宝)
御祭神徳川家康公をおまつりする「本殿」と参拝をするための「拝殿」を「石の間」で連結した「権現造(ごんげんづくり)」と呼ばれる様式で、全国に数多く創建された東照宮の原型となりました。 元和3年(1617)建立。江戸幕府大工棟梁中井大和守正清の代表的な遺構のひとつであるとともに、江戸時代を通じて権現造社殿が全国的に普及する契機となった最古の東照宮建築として、平成22年国宝に指定されました。 通常は拝殿前よりご参拝いただきますが、ご祈祷や結婚式の際には拝殿に昇殿いただきご参拝いただきます。神前での厳粛な雰囲気とともに、内部の美しい装飾もご覧ください。 御社殿について詳しくはこちら
玉垣(重要文化財)
玉垣は御社殿の周囲にめぐらされた垣です。 玉垣腰に92枚・渡廊下腰に14枚・計106枚の彫刻があり、それぞれ一枚の板を彫り上げた透彫で、生彩色を施しています。 106枚の彫刻のうち、鳥を扱ったものが圧倒的に多く、その中でも小鳥が45枚あり、その殆どが2羽か3羽で如何にも長かった戦乱期を経て家康公によってもたらされた平和の世を謳歌しているように見えます。またその背景には満開の梅の花。自由に延びている蒲の穂・枇杷の丸やかな実・今にも割れて落ちそうな栗の実・垂れ下がる粟の穂等五穀豊饒、花咲く世を現し、大変見応えがあります。その他大きな鳥では鷺・鶴・孔雀・鷹等が格狭間一杯に彫られ又動物では狛犬が11枚他に唐獅子・木鼠・虎・犀、なかでも特に珍しいのは蟷螂、揚葉の蝶があります。これらの彫刻をした作者名が残されていないのは誠に残念ですが、当時の工人達が努力と工夫を重ねて残された作品です。
廟門(重要文化財)
以前は御宝塔御門と称えました。本殿の後方西側にあります。廟所に通ずる門です。金地鳳凰牡丹の絵があります。
廟所参道(重要文化財)
廟門から神廟までの間をつなぐ参道です。左右には家康公に仕えた武将たちが奉納した石灯籠が据えられており、厳かな雰囲気が漂っています。
神廟(しんびょう)(重要文化財)
神廟は本殿の後方にある廟門より約40段の石段を登った所にあります。
ここは御祭神徳川家康公の御遺骸を埋葬し奉った所で以前は御宝塔と称えていました。
元和2年(1616)の創建当初は木造桧皮葺の造りでありましたが、寛永17年(1640)に3代将軍徳川家光公により現在の石造宝塔に造替されました。宝塔の高さは、5.5メートル、外廻り約8メートル、前面に唐戸があります。軒の四隅に唐銅の風鐸が掛かっています。
なお神廟は家康公の御遺命により西向きに建てられています。西の方には、公の御両親が子授け祈願の参籠をされたという言い伝えを持つ鳳来寺があり、さらにその西に岡崎の松平家の菩提寺大樹寺、家康公誕生の地である岡崎城があります。そしてその延長線は京の都へと続いています。
久能山東照宮博物館
久能山東照宮博物館は、徳川家康公を御祭神とする久能山東照宮に付属する歴史博物館です。収蔵する資料は、奉納による久能山東照宮伝世の宝物を中心に総数2,000点を超え、その特色は、スペイン国王より徳川家康公に贈られた『洋時計』など徳川家康公の日常手沢品がまとまっていることと、徳川歴代将軍の武器・武具が充実していることです。
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