四百年続く、平和への祈り。久能山東照宮

国宝御社殿

国宝、極彩色の御社殿

久能山東照宮の御社殿は、徳川家康公を祀る霊廟として元和3年(1617)に創建されました。 二代将軍秀忠公の命により宰相頼将卿(後の紀州家の祖頼宣卿)が総奉行となり中井大和守正清を大工棟梁として元和2年5月着工、同3年12月に至る僅か1年7ヶ月と云う短期間に造営されました。 権現造、総漆塗、極彩色の御社殿は日光東照宮より19年前に造られ、彫刻、模様、組物等に桃山時代の技法をも取り入れられた江戸初期の代表的建造物として国宝に指定されています。

権現造について

御社殿は本殿と拝殿を床の低い「石の間」でつないだ、いわゆる権現造の形式をもつ複合社殿です。
伝統様式である和様を基調とし、複雑な構成になる立面や軒廻りなどを巧みにまとめ、蟇股内部を花鳥の透彫とするなど細部も整った意匠をもっています。
軸部や軒廻りは黒漆塗、縁廻りは赤漆塗で仕上げ、要所に彫刻、錺金具などを用いて荘厳化を図っており、幕府草創期における質の高い建築技術や工芸技術を伝えています。

このように、久能山東照宮の御社殿は極めて洗練された意匠をもつ権現造であり、江戸幕府における造営組織の草創期において、その礎を築いた中井大和守正清の代表的な遺構の一つとして貴重であるとともに、江戸時代を通じて権現造の社殿が全国的に普及する契機となった最古の東照宮建築として、わが国の建築史上深い意義を有しています。 このような建築様式は以前よりありましたが、徳川家康公を「東照大権現」としてお祀りする久能山東照宮の創建により「権現造」と呼ばれるようになりました。

つまり、久能山東照宮の御社殿こそ真の権現造の祖形をなすもので、その後全国に数多く創建された東照宮の原型となったのです。

写真:御社殿(側面)御社殿(側面)

中井大和守正清について

中井大和守正清は、永禄8年(1565)に法隆寺門前の西里で誕生しました。
正清は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦後に、徳川家康公より上方の大工支配を仰せつかったと伝えられています。その直後には徳川家の御大工として二条城、伏見城の作事に携わり、慶長11年7月に従五位下大和守に叙任され、公儀大工の第一人者となりました。

徳川家康公は、二条城、伏見城、江戸城、駿府城の城郭や、知恩院、増上寺の作事でみせた正清の手腕を高く評価しました。そして、「何事も御普請方之儀、大和次第」と言い、正清に全幅の信頼を寄せ、名古屋城、内裏の作事を命じました。正清はまさに東奔西走の日々を過ごし、慶長17年(1612)に従四位下に昇叙しました。その位階は大名に与えられるもので、大工棟梁としてはきわめて異例の出世でありました。この時期の正清の作品で現存するものは少ないですが、仁和寺の金堂(国宝)は、慶長18年に上棟した慶長度内裏の紫宸殿を、寛永年間に移築したもので、京都に残っている正清の代表作として貴重な建物です。

元和2年(1616)4月、徳川家康公は駿府城に薨去されました。御遺骸は遺言により久能山に埋葬され、正清に社殿の造営が命ぜられました。これが久能山東照宮で、正清が渾身を込めて造った社殿は四百年の時を経て今もその姿を伝えています。

久能山東照宮の造営を終えた正清は、元和5年正月21日、徳川家康公のあとを追うかのように、近江水口で55歳の生涯を閉じました。
このように、久能山東照宮は、徳川家康公の側近として仕えた中井正清の最晩年に全身全霊を込めて造った最高傑作といえるでしょう。

写真:重要文化財 中井大和守正清肖像画」 中井正知氏・中井正純氏蔵 大阪市立住まいのミュージアム寄託 撮影:京極寛「重要文化財 中井大和守正清肖像画」 中井正知氏・中井正純氏蔵 大阪市立住まいのミュージアム寄託 撮影:京極寛

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