四百年続く、平和への祈り。久能山東照宮

徳川家康公について

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御祭神徳川家康公は天文11年(1542年)12月26日三河国岡崎城主松平広忠公の嫡男としてお生まれになり、あらゆる艱難辛苦の末、戦国乱世に終止符を打ち天下泰平の世を目指して理想の国づくりにその御生涯を捧げられました。
徳川家康公の国づくりの基本理念は、力による武断政治の終焉と、国民ひとりひとりの命を大切にして教育の充実を図ること、そして対外的には海外の国々と友好的な関係を築き、戦を避けて交易を主とした平和外交を進めることでした。
関ケ原の合戦を勝ち抜き大坂の陣を終え、その旗印である「厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)」(争いの世界を離れ、この世の浄土、つまり戦乱のない平和で豊かな世の中をつくる)を成し遂げられた徳川家康公は、元号を「慶長」から「元和」(平和のはじめの意)に改め、日本全国に戦いのない平和な時代が訪れたことを宣言しました。
徳川家康公が一生をかけてつくられた平和な時代はその後260年あまりにわたって続き、今日の我が国の基盤となりました。

徳川家康公 略年譜

年号 西暦 事項
天文11年 1542 1 12月26日 三河国岡崎城に生まれる。幼名竹千代。父松平広忠、母水野氏(お大の方・伝通院)。

蟇目の儀が行われる中、白絵屏風のある産室で男児(家康公)を出産
「東照社縁起絵巻」巻一第三段 御誕生(部分) 紀州東照宮蔵

天文13年 1544 3 9月 母お大の方離別せられ、刈谷城に帰る。
天文16年 1547 6 9月 人質として駿河の今川義元の許に赴く途中奪われて尾張の織田信秀の許に送られる。
天文18年 1549 8 3月6日 父広忠が没する。11月 尾張より岡崎に帰り、同7日 駿府の今川義元の許にいく。
弘治元年 1555 14 3月 元服、松平元信と称する。
弘治2年 1557 16 正月15日 関口義広の女(築山殿)と結婚する。
永禄2年 1559 18 長子信康が生まれる。母は関口氏。松平元康とあらためる。
永禄3年 1560 19 5月19日 桶狭間の戦、今川義元が戦死する。5月23日 岡崎城に帰る。
永禄4年 1561 20 春 織田信長と結び、今川氏真と絶つ。
永禄6年 1563 22 3月2日 長子信康と信長の女徳姫と婚約する。7月6日 松平家康とあらためる。9月 三河一向一揆の争乱がおこる。
永禄7年 1564 23 3月28日 三河一向一揆の争乱が終わる。この年ほぼ三河全国を統一する。
永禄9年 1566 25 12月29日 徳川復姓の勅許を得、従五位下に叙せられ三河守に任ぜられる。
元亀元年 1570 29 6月 居城を岡崎より遠江浜松に移す。同月28日 近江姉川の戦、信長を援けて朝倉・浅井両氏の軍を破る。
元亀3年 1572 31 12月22日 遠江三方原の戦、武田信玄に大敗する。
天正3年 1575 34 5月21日 三河長篠の戦、信長と連合して大いに武田勝頼を破る。
天正7年 1579 38 4月7日 第三子秀忠公が生まれる。母は西郷氏。
天正10年 1582 41 3月11日 勝頼死し、武田氏が亡びる。5月11日 浜松を出でて西上し、6月2日 泉州堺にて信長が京都本能寺で斃れたことを知り、同4日 岡崎に帰る。
天正12年 1584 43 3月より 小牧・長久手の戦、織田信雄を援けて羽柴秀吉と尾張に戦う。
天正14年 1586 45 2月上旬 秀吉との和議成り、5月14日 秀吉の異父妹朝日姫と結婚する。10月27日 大坂城にて秀吉に会う。12月 浜松から駿府に移る。
天正18年 1590 49 秀吉の小田原征伐に従い、北条氏滅亡後その旧領関東六ヵ国に移され、八月朔日 江戸城に入る。
慶長3年 1598 57 8月18日 秀吉歿し、家康公を筆頭とする豊臣氏五大老・五奉行の合議政治が始まる。
慶長5年 1600 59 6月15日 大坂城を出て、会津の上杉景勝征討に向かい、下野小山にて石田三成の挙兵を知り、引き返して東海道を西上し、9月15日 関ヶ原大戦に大勝、同27日 大坂城に入る。
慶長6年 1601 60 東海道に宿場を設置する。
慶長8年 1603 62 正月6日 従一位に叙せられ、2月12日 征夷大将軍となり右大臣に任ぜられる。この年江戸市街を改修する。江戸に幕府を開く。
慶長10年 1605 64 4月16日 征夷大将軍を辞し、世子秀忠公が将軍宣下を受ける。
慶長12年 1607 66 2月29日 江戸城を去り、大御所として駿府に隠退する。 朝鮮通信使を歓迎する。
慶長14年 1609 68 オランダ国王施設に駿府城で引見し通商を許可する。
慶長15年 1610 69 遭難したドン・ロドリゴ総督らスペイン人を日本の帆船でメキシコに届ける。
慶長16年 1611 70 二条城で豊臣秀頼と会う。 7月 スペイン国王フェリペ3世からの答礼使に駿府城で引見、「洋時計」他を献上される。
慶長18年 1613 72 イギリス国王使節に駿府城で引見し通商を許可する。
慶長19年 1614 73 7月 京都方広寺大仏殿再建の供養、鐘銘につき豊臣氏との間に紛糾を生じ、11月 大坂冬陣開始、12月22日 和議成立。
元和元年 1615 74 大坂方再挙、5月 大坂夏陣、豊臣氏滅亡。7月以後 武家諸法度・禁中並公家諸法度・諸寺法度等を制定する。

慶長20年(1615)5月、大御所・家康公は将軍秀忠公と共に大坂へ出陣。大坂城へ攻め寄せた。
「東照社縁起絵巻」巻二第四段 大坂陣(部分) 紀州東照宮蔵

元和2年 1616 75 正月21日 田中にて発病し、駿府城に帰って加療、3月17日 太政大臣に任ぜられ、4月17日 薨去。久能山に埋葬する。

元和2年(1616)4月17日、徳川家康公は75歳で薨去。遺言により久能山へと埋葬される。
「東照社縁起絵巻」巻三第二段 久能(部分) 紀州東照宮蔵

元和3年 1617 薨去後1年

元和3年(1617)2月21日、朝廷より「東照大権現」の神号を賜る。
「東照大権現像 天海僧正賛」 久能山東照宮博物館蔵

2月21日 東照大権現の神号を贈られ、3月9日 東照社に正一位を賜る。
正保2年 1645 薨去後29年 11月3日 東照社に宮号宣下、東照宮に改めて正一位を賜る。

家康公の御遺訓はこちらをご覧ください。

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